●被災でのこの一年 NEW●パーソナルサポーターと出会って


 私がパーソナルサポーター(以下PS)の方と出会ったのは、私が「うつ病」と診断されてからちょうど1年目の事でした。病院に入院して半年ほど経った頃です。病棟の精神保健福祉士(以下PSW)からPSを紹介された当時の私はまだ「人間不信」の固まりでした。と言うよりも「早く自分が死ねばいいのに」と思っていました。
 後でPSからは「初めて会った時は目も合わせてくれなかったよね」と言われました。そんな状態の私はこれまでの私の経緯と抱えている問題をぽつぽつと半ばあきらめの境地で話し終わるとPSからは「これからはPSWさん、私、そしていろんな人が『チームAちゃん』を作って応援するからね。1人じゃないんだよ」と言ってくれました。その言葉をかけてもらった途端、その頃は泣くことさえしなくなっていた私も涙が出てきました。PSW、PSと3人で泣きました。

 私は幼少のころから「母親にあわせ続けて生きている自分」に気付かず、勉強やスポーツを自分の限界まで頑張ってやっては病気になり、ひどい時は入院という人生を送って生きてきました。大学を卒業し結婚、実家を出ましたが今度は義母から様々なひどい言動を受けながら、また自分でも気づかぬうちに人に合わせながら生き、そんな中で出産・育児が始まりました。夫を頼りに暮らしていましたが、うつ状態がひどくなり眠れない、食べられない生活が続き生活のために働くことも困難になりました。夫との仲も悪くなり離婚を迫られ、子供と引き離されました。
 もともと「人に頼る」という発想の無かった私は、相談機関に片っ端から電話をかけた事もありますが、根本的な解決には至りませんでした。それからはずっと「死ぬこと」ばかり考えていました。いつもいつも「死にたい」と思っていました。主治医からは実家に戻るのではなく入院を勧められました。それからは自分の居場所は入院した病棟のベットの上だけでした。
 半年ほどして退院許可が出たのですが、私には帰る場所がありませんでした。(自殺する場所は入院中いろいろ考えましたが・・・)自分の住む場所、病気療養、離婚、子供、仕事、母親との確執、生活費、料理、家計管理などの生活に関わる事、社会に出ていく事全てに不安があり、当時の私の問題は何一つ解決していませんでした。
 そんなときに親身になってくれた病院のPSWの人が「PSを知っている、気軽に話を聞いてくれるから行ってみよう」と声をかけてくれました。そしてPSは、障がい者となった事に"引け目"を感じていた私に"普通"に接してくれました。
 その後 PSから広がった公私にわたる様々な団体・個人のサポートを得て、私は自分の問題をゆっくりひとつずつ自分のペースで解決し、改善し、今は退院してひとり暮らしをしています。
 離婚問題は PSが女性センターの人につないでくれて、カウンセリングを受けることができました。弁護士さんにも会いました。そして私の「これから」について、いろいろな人と話し合いました。女性センターさん、弁護士さんも"チームA"に入ってくれていたのだと思います。そして主治医の立会いの下、話し合いをして離婚することができました。子供のこと、今後のことを相手方と話し合い、希望通りに終える事ができました。

 生活に関しては、様々な選択肢から1人暮らしを選びました。申請した障害年金だけでは生活費が足りなかったので私は「すぐに働いた方がいい気がする」と話すと、主治医は「無理をせずゆっくりと」というので、まずは就労体験から始めることにしました。PSから私のような病気をもっている人たちの就労支援をしている先を数件教えてもらい、その中から、興味を持っている仕事を選びました。そこの担当者も「チームAさんなんだよ!」と言ってくれて一緒に何件か就労場所を見学しました。今は自分の体調を見ながらゆっくりと通っています。

 足りない生活費については、生活保護制度について説明を受けました。内容について分からないことや私自身、偏見があったのですがPSから説明を受けて納得し申請しようと思いました。私が不安だったのは"扶養調査"というものでした。母が私と離れることを承諾するのか、生活保護を受けることに対してどのように反応するのか。
 数日後、PSと一緒に生活保護の窓口に行きました。私の病気の根源は母親との関係なので主治医は生活保護申請の際に意見してくれました。生活保護の担当者の方も「私もチームAさんだから」と、PSとともに母親と話し会いをしてくれました。その後は手続きがスムーズに進みました。
今では母もPSを信頼しているようです。母との関係もPSがクッションになっているので、私も以前のような関わりでは無くなりつつあります。PSは「お母さまにはお母さまの心配事があるのでしょう。今度はそちらが聴けたら・・・」と言っていました。でも私は今のところ、母に興味はありません。
 PSは行政の窓口や担当者、制度をたくさん知っていて次々にパスを繋ぎながら私を支え続けてくれました。必要書類の入手方法、行政の他にも必要な窓口や団体をよく知っていてとても手際が良かったです。
 住むところにも悩みました。主治医、PSW,PSと話し合い普通のアパートでの一人暮らしは不安なのでパンション(家具付き個室と食事付共同生活施設)を選択しました。PSと数か所見学に行きました。以前の私は人に会うのが辛かったのですが、今は私のことを分かってくれる人が近くにいたり、活気のある場所に住めてとても満足しています。

 私が決めたこのパンションは、交通の便もとても良いところです。車を持たず、少しずつ社会復帰をめざしていた私にとっては本当に良い選択ができたと思います。後で知ったのですが、PSはそのパンション管理者である不動産会社に、生活保護受給者、精神疾患のある人の受け入れと、私の複雑な事情や、料金について生活保護でもらえる基準についてなどいろいろな事を何度も話し合ってくれていました。私が契約に行った時には不動産会社の担当者の方が「これからは安心してのびのびと自由に生活してくださいね」と、とても温かい言葉をかけてくださいました。「これからは不動産屋さんも"チームAさん"なんだよ」とPSから言われて驚きました。そしてこれから、このパンションは私のような人達を積極的に受け入れることにしたのだそうです。(コレって凄いことだと思いました)PSは「同じような需要はたくさんあるんだよ」と言っていました。
 このような病気になって、改めて同じ問題を抱えている人達が多く存在することを知りました。そして生きる辛さや苦しみを外に出すこともなく、心身・経済的に貧しく暮らしている人達がたくさんいる事、そしてその人達を支援している人たちもこの町にたくさんいることを知りました。当事者の人達が普段どうしているのかをPSに聞いたところ、「当事者・家族・支援者の会」に連れてってくれました。これからはそこも私の居場所になりそうです。
 家計管理も不安なので、PSにもらった家計簿をつけてチェックしてもらっています。様子を見ながらですが、社会福祉協議会の金銭管理のサービスというものも利用してみようと思っています。
 退院後、一人暮らしを始めて、自分の生活が少しずつ落ち着いてきた今、私が思うのは「東日本大震災」で被災し、未だ困難な生活を強いられている人達への支援についてです。そして被災した方々以外にも世の中には辛さや苦しみ、悩みを抱えて生きている人が大勢いると思います。もしかしたら、私のように「死にたい」皆さんもいらっしゃるのではないでしょうか?そんな人達へ今私が言えるのは「ちょっと、とりあえずパーソナルサポートセンターへお茶しに行ってみませんか?」ということです。

 この制度はモデル事業ということで、設置されている場所が限られているそうです。私にはまだまだPSのサポートが必要です。また、私以外にもPS制度を必要とする人、まだPSとも出会えていない人がたくさんいると思います。パーソナルサポートサービスは行政や、病院など単体の機関では支援しきれない問題を抱えた人達に「複合的な支援を提供できる」とても良いシステムだと思います。ぜひこの事業を継続し、被災者の皆さんをはじめ、現在の生活に困難を感じている人達がもっと気軽に利用できる様になればと思っています。
 最後になりますが、現在私はとても心安らかな生活を得ることができ、そんな日常生活の可能性を見つけてくれたPS、そして「チームA」に関わってくださった皆さんに心から感謝しています。私がこの文章を書いている間も、まだ、すべてが順調というわけでは勿論ありません。状況や体調も一進一退を繰り返し、今でも気持ちや体調が落ち込んだりすることがあります。
 現在、PSが繋いでくれたものや制度を利用しながら、私の生活や存在は成り立っています。そして各種制度を利用していくうちに多くの人達と出会いました。
 PSと出会う前、私は「独り」だと思っていました。しかし今は違います。
 正しく制度を理解し、本当の意味で「親身」になってくれたPSやそこから派生した人々とのつながりに私は「人は人でしか癒されない」と思っています。



 3歩進んで2歩下がる、3歩進んで4歩下がる を繰り返しながらここまできました。
自分の声を同じような苦しみを持っている人たちに伝えて、支援に結びついて欲しいというAさんの思いにPSが力をもらいました。
「自立すること」が問われるのであれば、その前提として「適切な選択をすることが可能な環境であること」が非常に重要ではないかと思います。その環境にたどり着いていないことに目を向けず、自立や自己責任の議論をすることは誤りなのではないかと思っています。